牧野義夫は、
上水内郡三水村(現飯綱町)のリンゴ農家、5人兄弟の末っ子に生まれた。
父は1歳の時に亡くなった。
りんご作りは手がかかり、6月の袋かけは猫の手も借りたいほど忙しい。
兄の影響で走ることに興味を持っていたが、高校進学はあきらめていた。
兄は、末っ子の義夫に夢を託した。
せめて、お前くらいは高校に行って勉強し、走ってみろ、と。
そうして進んだ長野中央高校・陸上部で頑張り、主将まで務めた。
インターハイとか国体といった特別の実績を残すことはできなかったが、
それでも、二つだけ、小さな嬉しい思い出を作ることができた。
一つは、県の新人戦の駅伝で、区間記録を作ったこと。
それまで母校は、長距離が振るわなかったのだ。
もう一つは、2年生の3月、
信毎マラソン(信濃毎日新聞主催)に初めて設けられた高校生10qで優勝、
その時は、家族全員が応援にきてくれた。
高校を卒業すると同時に、次兄が勤めていた いすゞ自動車に就職した。
陸上部には入らなかった。
そっと大会を見に行き、自分とのレベルの差を知ったのだった。
が、社内運動会で健脚が認められ、入社1年後、陸上部に入り再び走り始めた。
練習は戸塚のアパートから藤沢の会社まで、毎日、約10qの通勤ラン。
朝5時半に家を出る。次兄とバス停で別れ、走り出す。
昼休みも休日も走った。
人がやらないこと、苦しいことを求めた。きっといつか役に立つ、と。
やがて、神奈川県の強化選手に選ばれ、
二交替制という不規則な職場から同和電気に移り、たった一人で陸上部を作った。
ふるさとを離れて3年め、東京―新潟駅伝・神奈川県代表に選ばれ、
5年め、あこがれの青森―東京駅伝の代表にも選ばれた。
誇らしかった、誰よりも兄達に知らせたかった、が、同時に限界も感じた。
箱根で行われた代表選手合同合宿、練習について行けなかった。
自分のとりえは、一生懸命練習することだけ。
同じ力量の選手は他にもいる、練習熱心を買われての代表入りだった。
結婚を機に、郷里に帰ることにした。
富士通長野に転職、そこで再び、陸上部を作った。
・・・ その頃 ・・・
国鉄・信濃大町駅、臨時職員、
何の希望もないまま走り続けていた無名の若者、中山竹通がいた。
彼の高校時代の恩師が、面倒見てやってほしいと牧野に連絡してきた。
監督として引き受けた。
中山は、すぐに頭角を現し、富士通長野のエースになった。
「当時、私が教えられることにも、長野県という環境にも、限界がありました。
大切なことは、選手本人の才能を、最大限伸ばすこと。
そのために、できるかぎりのことをする、それが私の使命です。」
中山の将来性を見抜き、さらに伸ばしたい、と、ダイエーに送りだした。
会社に咎められたら、自身も辞めるつもりだった。
中山はその後、瀬古利彦、宋兄弟らと争う日本のトップランナーに成長、
福岡国際マラソン優勝、ソウル五輪4位、東京国際・優勝、バルセロナ五輪4位
輝かしい成績を残した。
名伯楽・牧野義夫は今、
NPO信濃町スポーツ企画サービス理事長として、選手育成に力を注ぎ、
さらに、陸上競技を通じての地域活性化に、日夜、奔走している。
|