島の真ん中にある、弁天様の石の祠   道からでも、かすかにそれとわかる  

この池の名前、現在の地図では 「針湖池」   記録では、針後池、針尾池、波里湖池などと書かれている。
「村史ときわ」(昭和43年発行) では「針尾池」 としている。私が子供のころは 「はりおのいけ」 と呼んだ。
1700年頃から、底さらい、拡張工事の記録が残り、この麓、水沢地区は、常盤地区最古の村とされる。

小学1年生の頃、尾崎の子供達の遠足で、1時間以上かけて歩いて行った。一面ジュンサイに覆われていた。
何人か、ハチに刺された。アンモニアが効くと小便をかけた。赤土で荒廃した場所、という記憶がある。
その後、ジュンサイはなくなった。ソウギョを放流して食べさせたと聞いたが、定かではない。

昭和35年、観光ボートの営業が始まった。・・・ しばらくして、一人でボートに乗った。漕ぎ方を知らなかった。
へさきに向って座り、両手で交互にオールを回し、操船不能で笑われた。それが船長としての、初体験だった。
何度も通って、腕を上げた。 いとこの 「きさく さん」 と弁天島に上陸、祠の存在を知り、船の効用に目覚めたが

・・・ 50年後、自分が船長になるなど、思いもよらなかった ・・・