奥穂高岳(標高3190m) 北アルプス穂高連峰の主峰。富士山(3776m)北岳(3192m)に次いで、日本で3番目に高い。

駆け出しサラリーマンの頃、同期のTと焼鳥屋でよく飲んだ。彼は松本市のとなり村から単身赴任していた。山が得意だといっては、北アルプスの山々の話をした。で、「奥穂へ連れてってやる」ということになった。

晩秋の連休、会社の役員車を無断で乗り出して上高地へ向かった。まだ、自分の車を持てない安月給だった。それにしても、今では考えられないおおらかさだ。車は上高地の手前の林道わきに乗り捨てた。何台も路上駐車してあったが、さすがに黒塗りのクラウンはなかった。そりゃそーだ、こういう車の人は帝国ホテルに泊まる。こんな道端に置くわけがない。そんなことには、まったく無頓着だった。Tの仕事は、その車の運転手だった。

上高地から横尾山荘までは、梓川沿いの平坦な道だ。上高地までの観光客と登山者が入り混じって歩く。そんな頃から、あれっ、変だな、と思った。二人パーティーなのに、Tはさっさと先へ行く。上高地を出て2時間余り、横尾山荘に着いたときはTの姿はまったく見えなかった。まあ、いいか。今日は穂高岳山荘泊まりだ。そこまで行けばいるだろうと、マイペースで涸沢への道を辿った。赤いヤッケに運動靴、ナップザックの若い女性が、岩の道をぴょんぴょん跳ねながら登っていった。なんだ、北アルプスってハイキングに来るところか、と興醒めした。

晩秋の涸沢は紅葉が素晴らしかった。色とりどりのテントと、人の数にもたまげた。へー、まるで東京みてーだ。湯を沸かして紅茶を飲んだ。単独行には慣れている。ただ、いつもの妙高連山の登山道と違って岩と石ばっかり。おらー、こんな人と石ばっかりの山は好かねえなあ。
涸沢からの登りは、小さい砂のような石で足が滑り、きつかった。ここで先行するTに追いついた。穂高岳山荘へは一緒に入った。最初と最後だけの二人パーティーだった。

夏山最後の連休、小屋は登山者でごった返していた。寝るスペースは肩幅だけ。あお向けの肩幅ではない、横向きのだ。目刺のようになって寝た。寝返りもできない。寝たといっても、眠った気はしなかった。こんなところで寝ててもしょうがない。朝は早く起きた。あたりはうっすらと白くなっていた。寒かった。小屋からはすぐ鎖場だ。持って来た軍手を出した。と、Tが言った。「おれ、軍手忘れた。片っ方貸してくれ」えー、うそだろー。山へ来るのに軍手は常識じゃねーか、と思ったが、しょうがない、片方を差し出した。

素手に鎖場は冷たかった。が、そのうち忘れた。
頂上に着いた。「これが、日本で3番目の高い山かー」と感慨がわいた。両手を思いっきり上に伸ばした。この指の先は、北岳の頂上を超えているだろう。今、おれの指の先は日本で2番目の高さだ。思わずニヤリとした。水筒の水を飲んで、さて、下ろうかと思った。Tが言った。「水をくれ」「えっ?」
「おまえ、自分の水はどーした?」「重いから、さっき捨てた。」「・・・・」絶句した。山で水を捨てるって?命を捨てるようなものじゃないか。あんた、山には自信あるって言ってたのは、あれは・・・。
その時、加藤文太郎のことを思い出した。なるほど、彼は、こうして命を落としたのか。

加藤文太郎、多少なりとも山にあこがれた人ならその名を聞いたことがあるだろう。私は、新田次郎の「孤高の人」でその名を知った。とてつもない単独行の鉄人で数々の登攀記録を残したが、生涯ただ一度の二人パーティーで遭難、命を落とした。その相手というのが、小説の上での話だが、まるでTのような人間だ。思わず舌打ちした。来るんじゃなかった、とも思った。が、幸い天気は良かった。まあ、遭難することはあるまい。

岳沢の急な坂を下った。上からの落石にヒヤヒヤしながらの下りだった。こんなこえー山は好かん。おらー、土の道が好きじゃー。やっぱ、山は北信五岳に限る。その時、後ろからTが言った。「服部ー、足が痛くてだめだー。」「どーした?」「靴ずれだ」「なにー?」「この靴、買ったばかりで、今日初めて」「えーっ?はき慣らし、してねーんか?」「してねえ」「・・・」
登山靴を買って、はき慣らしもしないで山に来るって、おめー、山が得意だって言ってたの、ありゃー、うそか?と言おうと思ったがやめた。聞くまでもない。
Tのザックを、自分のザックの上に背負った。なーんてこった。

上高地に着いた。Tと二人分のザックを上高地のバス停脇に残して、車を乗り捨てた林道まで30分さらに歩いた。悔恨の念を振り払いながらの道のりは遠かった。

Tとはその後、無縁になった。
と書けば、小説のようだが、30年以上たった今も付き合いは続いている。
2年前退職した折、先に退職していた彼は別の同期Yと二人、松本で慰労会を開いてくれた。
心のこもった暖かい慰労会だった。
別れ際、宿泊代を渡そうとした。Tは笑って受け取らなかった。