静岡の天竜川舟下りで、犠牲者の出る転覆事故が起きた。

一番たまげたのは、船頭が救命胴衣を着けていなかったことだ。自分よりお客様を大切にしなければならない、という営業上の建前はある。しかし、転覆、落水がいかに危険かを船頭自ら認識していればお客様はともかく、自身は救命胴衣をつけていたはずだ。どんなに泳ぎが達者でも、急流、着衣、パニックの中で泳ぎ続けることは難しい。ましてや、いざという時、乗船客を救助する立場であれば、流れの中で人を抱えて泳ぐこともできなければならない。しがみつかれても浮いているためには、救命胴衣は絶対必要だ。そもそも、そういう認識が全くなくて、川下りを営業してるなんて、信じらんない。

事故後、テレビ各局の放送を見ていると、各地の舟下りが、あわてて乗船客に救命胴衣を着けさせている。ところが、船頭やガイドは着けていない。自分達は無防備なのだ。これでは、転覆した時に、自分が助かることに精一杯で、乗客を救助することなどできるはずがない。単なる行政向けの対応で、危機管理の認識がまったく無いのだ。こういうのを「能天気」という。

中学校の頃、わざと危険なことをして得意がるのがいた。安全・危険という考えを「いくじなし」とさげすんだ。男には、そういう時期があるんだと思う。年齢を重ねても、安全より「暑い」「かっこわるい」などのわがまま押し通す人もいる。自己責任だから、あえて何も言わない。ただ、そういう自意識の強い人ほど、率先して安全意識を持って、いざという時、救助する側になってもらいたい。間違っても「臆病者」などと、救命胴衣を着けようとする人の足を引っ張ってはいけない。

私自身、過去20年の日本海でのマイボート船釣り、厳寒の千曲川鴨猟の経験で、何度も危険な体験をしてきた。そのたびに、着けているライフジャケット(救命胴衣)の作動紐をぎゅっと握りしめた。日本海の荒れ狂う波にもまれながら、「きょうこそ、ダメかもしれない」と何度も思った。大波を頭からかぶり、  進んでも進んでも陸地は近くならない。いまここでエンジンが止まれば、間違いなく転覆するだろうと思いながら、絶望的な思いで大波に立ち向かっていった。生きて帰ってこれたことが、不思議なくらいだ。したがって、ライフジャケットを着けないで船に乗るなど、考えられない。自宅に忘れてきたなら、船に乗ることをあきらめる。だから、私の乗船客には、救命胴衣を手渡すのが習慣になっている。

ところで、根本的な疑問に答えたい。「救命胴衣って、ホントに役にたつの?」
30年ほど前、直江津へ磯釣りに行った。「ペンチ」を自認する勤務先の後輩に、救命胴衣を貸した。彼は、喜び勇んでテトラポットに登ろうとして、足を滑らせて海に落ちた。その時「ハットリさーん、救命胴衣って、ホントに浮くんですね!」との迷言を放った。彼の名誉のために、F君とだけ言っておく。

また、我が家の子供たちは、小学生の頃、海水浴に行けばマイボートでずーっと沖合いに出て、救命胴衣を着けたまま海に飛び込んだ。水深は100m。彼らは、浮かぶことをたのしんでいた。つまり、救命胴衣は「みごとなほど浮きます」 足のつかない深さでは、若干あおむけで縦に浮きますから、安心感がありますし、呼吸も姿勢も非常に楽です。
        
こういう事故が起こるたびに『なんとまあ無知な』という思いに駆られる。
人間の危機に関する認識って、実体験の有無しだいではないかと思う。知らない者に注意してみても、すんなり受け入れられることは少ない。知っているものは、「言ってもむだ」と思って、注意することをあきらめる。しかし、営業である以上、責任者は何度でも従業員に言い聞かせ、それでもわからない者には、落水体験や救助訓練をさせる必要がある。「そんなの、わかってる」とみんな言う。
しかし、頭で分っているつもりでも、実際にやってみればできないことの方がよっぽど多い。

そして・・・
事故のあとに必ずやってくるのが、行政の大騒ぎ。善良な、良識ある運営をしていた舟下り、遊覧船に一斉に厳しい安全管理を押し付け、運営そのものが難しくなるだろう。
乗客の安全には細心の注意を払っていたとしても、何枚もの書類を提出させられることになると思う。行政の法整備不備の責任追及をかわし、事故後の安全管理を徹底したという実績づくりのために。
ただし・・・悪いのは、あくまでも事故を起こした舟下り会社であって、行政ではありません。念のため!