毎年、厳寒期になるとこの話を思い出す。
60年前のある冬の朝、熱を出して、母に背負われ飯山の開業医に向かった。

当時、除雪などという言葉すらない。幹線道路でさえ、冬季間はバスが運休していた。雪道は、交替で回ってくる「道踏み当番」が数人グループで「かんじき」をつけて、となり村との中間まで雪を踏んで作ったものだ。この踏んだだけの雪道を、かんじきなしの長靴で歩くと30pぐらいもぐる。後から行く者は、できるだけもぐらないようにと、人の踏み跡をたどりながら歩く。自然に真ん中が高くなって馬の背のようになった。道幅はというと、人一人が歩ける幅しかない。向こうから人が来ると、どちらかが路肩の新雪を踏みつけて退避場所を作った。その間、相手は立ち止まってじっと待つのだ。

私を背負った母は、馬の背のような雪道を歩いて信濃平駅に着いた。
が、列車が来るまで1時間も間があった。自宅で列車時刻なんか調べるすべもない。駅についてみて初めて知ったのだ。背中の子を、一刻も早く医者に見せたいと思った。当時、誰もがそうしたように、母は私を背負ったまま線路上を飯山に向かって歩き出した。
道路ではなく、なぜ線路を歩くのか・・・
当時、唯一除雪されているのが線路だった。そのうえ雪道と違って幅が広いし、真っすぐだから最短距離だ。線路に入ってはいけない、などと駅員も言わなかった。

信濃平駅から隣の北飯山駅までは3qちょっと。雪道、幼児を背負っていても小1時間で着ける。線路は平坦だ。回りは田んぼで、開けている。終戦から5年、我が家唯一の自家用車は自転車だった。もちろん冬季間は使えない。だから、歩くことは苦にならないし、二十をわずかに過ぎたばかりの母は足に自信があった。声には出さないが「えっほ、えっほ」とリズムをつけて歩いた。うっすらと額に汗がにじみ、背中の子を忘れて快適感さえ覚えた。あと10分余りで到着だ。と、その時、遠くで「ボーっ!」と汽笛の音がした。一瞬、背中に冷たいものが走った。あたりを見回した。いつの間にか、山あいに来ていた。「いけないっ!」

北飯山駅のすぐ手前で、長峰丘陵はわずかに東側にせり出している。ここには飯笠山神社がある。
この神社、もとは飯山城址の飯笠山にあった。我が家から100mの距離にある尾崎城址、この城主の
子孫が造営したとされている。上杉謙信が武田信玄に対抗するため、飯山城を拡幅した際、この地に移転したという。線路は、この丘陵のせり出した部分を掘り割って南に延びていた。

母は走った。
この掘り割りさえ越えれば、あとは平坦だ。どちらへも逃げられる。あと少し、あと少し。
その時、後ろのカーブを曲がって真っ黒な機関車が姿を現した。「ボッ、ボーッ!」運転手の顔が見えた。母は夢中で線路わきの斜面をよじ登った。機関車の煙が顔にかかった。体をひねって、背中の子を雪の斜面に押し付けた。目の前数十センチを客車が通り過ぎて行った。
長い長い時間が過ぎたような気がした。放心状態で、ずるずると雪の斜面をずり落ちた。

私は一部始終を母の背中で見ていた。が、もちろんまったく記憶はない。神仏の加護のおかげと言いたいわけでもない。ただ・・・
人生最初の生還だったことは、まぎれもない事実だ。