(ハムレットとは、まったく関係ありません)

この間の海水浴、いつも船内に常備している水中メガネ、鼻の部分がボロボロになって使えなかった。
で、10数年ぶりに買い替えた。スポーツ用品店で物色していると、足ヒレまでセットになった携帯用
素潜りバッグがあった。これはいい。

実は、誘われて○○島へ行く。久しぶりに潜ってみようと思ったのだ。倅曰く「一緒に行くおじさんは
泳がないんでしょ、やめた方がいいんじゃないの。相手が面白くないと思うよ」なるほど、それもそうだ。
その気遣い、倅らしい。やんわり、年寄りの「危険な(単独)冷や水」にくぎもさす。しかし、やりたい。
いつものことだが、ここからわがままを通すための屁理屈作りが始まる。

できる人ができることをすることで、他の人が気まずい思いをすることもある。
そういう時、できる人は相手を気遣って、できることをしないことが、いいことだろうか?
んっ?こんがらがった!早い話が、「やるべきか、やらざるべきか。それが問題だ!」

私はいつも、こう考える。@自分がやりたいことは必ずやる。やらなければ、自分が楽しくない。
A自分が楽しければ、周囲も楽しくなるだろう(たぶん)Bさらに周囲を楽しくさせるにはどうすればいいか。
本音には「自分のやりたい気持ちを通したい」というのがあります。
しかも、それによってイベントの幅が広がることも事実です。
今回考えたのはこうです。○○島には貝はもちろん、タコが多い。それ目当てで訪れる人が多い。だから、
その場でとって食べるくらいはうるさくない。で、携帯コンロを持参して、とったタコや貝をその場で焼いて食う。
缶ビールも用意しよう。調味料は醤油にわさび。紙皿と割箸、切れるナイフもいるなあ。
のんべえのおっさんだから、きっと喜ぶ。また来たいと言うかもしれん。
「島へ行くなら、アイツと行くに限る」とまで言いだしかねんぞー!よわったなー!

実はこれ、非常に重要なポイントを含んでいます。
人の世には、完全な平等はあり得ません。したがって、必ずできる人とできない人が存在します。
例えば学校。できる子とできない子、どちらを基準として授業を進めるべきか。
例えば会社、できる社員とできない社員どちらを基準として運営するべきか。業界団体、できる会社とできない会社。
悩ましいところです。しかし、重要なことが一つあります。それは、
「できる者の、できる力を抑え込めば、進歩は望めない」ということです。これが、よく間違って指示されます。
「自分ができるからといって、勝手にやってはいけない。できない者のことも考えろ。」
つまり、できる者であっても、できる力を発揮せず、できない者と同じに留める。それが平等というものだということ。
これって、なんかおかしい。できる者の足を引っ張ってる。
「みんなでやらなきゃ怖くない」という、怠けるための口実じゃないの。

人類は、先天的か後天的かを問わず、個々がその最大の力を発揮することで発展してきたのだと思います。
学校では、勉強でもスポーツでもはっきり優劣が現れますが、関係者ができる子の本当の力を抑え込んでいることは
ないでしょうか。会社では自分より出来る部下を疎ましく思って、パワハラでいやがらせしていることはないでしょうか。
業界団体が、斬新な営業方法を実施した会社を不当に制約していることはないでしょうか。
法律で自由な発想や営業を抑え込んではいないでしょうか。
「ある、ある」数え上げればきりがない。「平等・公平」は「出る杭を打つ」ための隠れ蓑ですねえ。
学校、職場、社会では、「個性や長所を伸ばす」などと唱えながら、逆に抑え込んでいることの方がずっと多いのが
現実だと思います。

対策。といっても、大きな問題を個人の力で解決するのは難しい。まず隗より始めよ、です。
できることはやる。遠慮しない。堂々とやれば、ひとこと言いたい人も、言いにくい。
「出る杭は打たれる。しかし、出すぎた杭は打ちにくい」
親がそうすれば、それを見た子供が何かを感じてくれるだろう。
後輩や部下が手本にしてくれることだってあるかもしれない。
世の中すぐには変わらない。けれど、いつかきっとわかる人は分かってくれるさ。

わくさんなら、最後にこう言うだろう。
『なんて、なっ!』