信越トレイルクラブが設置した案内板には・・・

越後の人々にとって信濃との往来が重要であったため、峠の名前に越後側の村名を冠したものが多い、と書いてある。

うーん、そうだろうか?
ここ奥信濃と上越地方に関しては、違うんじゃないか。


                                  (旧富倉峠→)
なぜなら、上越地方には海もあれば、平野・山地もある。特に信濃に頼るべき産物は少ない。
したがって、私は、逆ではないかと考える。

外様村史に、こんな記述がある。
『明治16年7月18日、早朝に家を出て、平丸峠を越え、越後直江津へ
塩買いに行って2俵購入。午後7時40分に帰宅した。』

これは、外様顔戸住人の栗岩隆之助氏の日記だ。塩は生活必需品の中でも特に重要度が高く、豪雪地奥信濃の長い冬の食料備蓄には欠かせない。商人でなくても、ごく当たり前に越後へ塩の買い出しに行ったと推測する。塩叺(かます)は、引いて行った馬の背に積んできたんだろう。
                                 (今の関田峠→)
したがって、奥信濃の峠道は、信濃から塩を買いに行った時に使った道で、主たる通行人は信濃の住人だったのではないだろうか。

だから、山を越えた最初の村の名前を峠の名前としているのだと思う。
たとえば「富倉峠」は、山稜を越えた向こう側の村の名前が「富倉」、
「富倉への峠を通って・・」を省略して「富倉峠」。
その隣の「北峠」は、外様中条から登って下った村名そのものが北峠。
富倉・北峠は信濃に属するが、信濃に属そうが越後だろうが、そんなことはどうでもよかったのだろう。
                                  (旧梨平峠→)
ちなみに「平丸峠」は、山の向こう側に越後平丸村、「関田峠」は越後関田村、「梨平峠」は越後梨平村。
「牧峠」は越後牧村、「伏野峠」は越後伏野村といった具合。
・・・ こう考えると、つじつまが合ちゃうんだよねー!