「外様」って
「とざま」と読んでいいの?「外様大名」の「とざま」?
そうです。「とざま」と読んでください。

小学校か中学校か忘れましたが、長野の博覧会に行きました。
先生が手に持つ「外様小学校」という旗を見て、
係のお姉さんたちが「がいよう小学校?」
とけげんそうに話していました。
それはさておき、なんで地名が「外様」になったんでしょうか。

明治22年4月1日、緑村(中条・法寺)寿村(顔戸・尾崎)
中曽根村を合わせて外様村と称した、と外様村史に書かれています。
現在の地区名になったのは、この時からです。
また、外様村史によれば、戦国時代の終わり頃に作られた
「尾崎三桜城由来記」「外様十人衆由来記」「飯山城築始め」
「外様旧鑑録」などの写本で、
尾崎城に本拠を構えていたと伝えられる泉氏が、
上杉家から「外様」と呼ばれていた、という記述があります。

鎌倉幕府以後、将軍の一門または譜代の家臣でない者を
「外様」と呼んでいたようですから、全国的には
「外様」とよばれた地域はかなり存在したと思われます。
しかし、googleで「外様」を検索すると、
飯山市外様以外の行政上の名称は見当たりません。

江戸時代、享保9年(1724年)の領地替えで、
飯山藩本多氏の領有は水内(みのち)郡となり、このころ
飯山城から北の方を「外様組」と呼んだそうです。
このあたりに、外様村命名の由来がありそうですが、
ではなぜ、現在の外様地区だけ「外様」を名乗ることになったのか、
このあたりが、いまいちはっきりしません。
最近の市町村合併と同じように、明治22年頃
新しい村名をどうするかで、大もめしたんじゃないでしょうか。

外様村史にはまた、
初代村長に服部作右ェ門が就任、と書かれています。
この人の書き残したものを探せば、
あるいは、村名決定のいきさつが判明するかもしれません。
いずれ、土蔵を探してみようと思います。

 
 

本多氏の領内区分(文化2年1805年以降)
外様組(城下を除く)
城下(飯山町)
山之内組(三水村、豊田村)
川辺組(蓮から長野市三才あたりまで)
千曲川の東側は天領


「外様郷土史」(飯山市外様公民館)より