・・・ こうして蟹沢(かにさわ)を離れて、上今井というところで、船を待つ2・3の客が岸に立っていた。
   船頭は、みぞれが舞う中をじゃぶじゃぶ水の中に入って行って、男や女の客をおぶって来た ・・・
                                         島崎藤村 「千曲川のスケッチ」

明治37年、藤村が帆掛け船で蟹沢(立ヶ花橋あたり)から飯山湊まで下る様子を書いたものだ。
 
右の写真は、上今井からちょっと下ったところで、
向こう岸は、旧豊田村替佐。

船の帆は、川下から風を受けているので上り船。
川岸に停泊しているのは下り船で、大勢の人々が乗船しようとしているようだ。

このあたり、右岸・左岸、交互に船着場を設けて
沿岸住民の便宜を図ったものと思われる。

      (写真は「千曲川犀川の本」銀河書房より)
 
千曲川の通船は、江戸時代末期の西暦1800年前後からあったという。最初は塩などの物資輸送が主で、旅客はおまけ
だったらしい。船頭1人、へさき竿1人、急流で船を引く曳き手4〜8人が乗り組んでいて、西大滝(飯山市)〜福島(須坂市)
を6日ぐらいで往復したそうだ。

明治21年、信越本線が直江津まで開通すると、豊野駅で汽車を降りて蟹沢まで4km程歩き、そこから船で飯山へ向かった。
大正12年、飯山線が西大滝まで開通して通船は幕を閉じたが、その後も大雪で飯山線が不通になると、出番があったらしい。

そうそう・・・  「千曲川のスケッチ」にこんなくだりがある。
 
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黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の目の前に開けた。・・・それが、古い飯山の城下だ。