ここからは番外編
中学校の保護者達が憤慨していた。
『彼は飯山高校(旧飯山南高)の体育科を受験したが、不合格になった。公立高校なのに障害を理由
に不合格にするなんて許せない』 そう、そのとおりだと思う。しかし、これが社会の現実でもある。

不合格にした側の判断を推測すると、こうだ。

体育科の目標は「世界で活躍できる選手・指導者の育成」である。野球ならば、常に県大会上位を
定位置としなければならないし、将来、大学野球、社会人野球ひいてはプロを目指す選手を育成する
使命がある。しかるに、現在の日本で彼にその可能性がわずかでもあるか?否である。
であれば本校体育科に合格させることは、彼にとっても本校にとってもマイナスでしかない。

また、もし練習中に障害が悪化し、損害賠償を請求されたらどうなる。県と指導者個人が弁済せざる
を得ない可能性がある。これに県が賠償金を支払ったらどうなる。入学許可の決定が不適切だった
のが原因で、県に損害を与えたとして訴訟を提起される恐れも否定できない。
これだけリスクだけが高い生徒を受け入れるのは、いかがなものか。

しかし一番は、合格させない親切こそが、彼本人の為には最も必要なのだ。体育科とはいえ教育
である。希望を持って入学したはいいが、練習についていけない、障害が悪化した、などで挫折し、
本人が不幸になっては元も子もない。合格させることは無責任で簡単だが、ここは、教育者として
不合格とすることこそが、本人の為を思う勇気ある決断なのだ。後期選抜で別の道を選ぶことを
勧めたい。

いかがです?「なるほど」と思っちゃいました? こういうのを「詭弁を弄する」といいます。
ただし、これはあくまでも、わたくしの推測による作り話ですからね。念のため。

で、彼にとって最も好ましい状況って、どうなんでしょう?
具体的に言えば、体育科にはいれたら、今より幸せな状況になっていたでしょうか?
この状況では「否」だと思います。
なぜなら、不合格の判断には、上記推測論の要旨がかなり働いているはずです。
早い話、指導者の中に推測論に近い考えの人がいるはずで、その人が主導権を握っています。
したがって、彼(貴文君)は上記新聞記事のような状況には成り得ない環境で指導を受けるでしょう。
とすれば、泣かず飛ばず。憂き目を見て失意の中。出せる実力も発揮できない状況で、
ふてくされたり、または、できるところを見せようと無理をした結果、障害悪化という最悪の事態に至
っているかもしれません。悲観論は的中しやすい?いいえ、人為的にその方向に行かされる。

不思議ですね。門戸を閉ざした側には、閉ざされた人間を育てる能力が無いから、閉ざしたんです。
鶏が先か卵が先か、じゃないけれど、これが自然の摂理です。
反対に、彼を受け入れた現在の指導者はその能力を持っていて受け入れたんでしょうか。
さあ、それは分かりません。
が、知らないことや未経験の方が、悪意の経験者よりよほど好結果をもたらします。

では、閉ざされた本人からすれば、どうでしょうか?

たぶん、彼(貴文君)は、どんな状況でも笑いながらやりぬいてしまうでしょう。
へこたれるようなら、とっくにへこたれています。
歯を食いしばって頑張るのは辛いから。彼が笑顔で頑張るのは、好きだからこそ。
「父を心配させてはいけない」という健気な思い、実は彼だけではありません。
貴女も、貴方も、子供のときにはみんな、親に対してそう思っていたんです。
親を思う子供の気持ち。もしかすれば、子を思う親以上かもしれません。

こういう芯の強さは、親や兄弟や家庭が育てます。
また、親も兄弟も家庭も友人も、彼を見て成長します。

面白いですねえ、教育的立場の多くの人達ができれば回避したいところにこそ、
教育的真髄があります。